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文化講座 豊崎由美氏講演会「炭坑のカナリアとしての読書」

―2015年9月21日のイベント
visit:2015/09/21
§ 毎年恒例となった千石図書館での豊崎由美氏による講演会

千石図書館では「文学講座」と題して、月に1回程度、講演会などの文学イベントを開催しています。その中の一つとして、書評家の豊崎由美氏の講演会も毎年恒例となっており、2015年9月21日に開催された講演会「炭坑のカナリアとしての読書」を私も聴きに行きました。私の記憶では2012年をスタートに、毎回テーマを変えて開催していて、これが千石図書館での4度目の豊崎氏講演会のはずです。

実は今回、よく利用させていただいている文京区立本郷図書館の館長さん・副館長さんがいらしていて、千石図書館の館長さんも東京図書館制覇!のことをご存知だということから、大変恐縮ながら講演会後の控室にお邪魔させていただいて、豊崎さんと更にお話する時間をいただいてしまいました。なので、ここでは、そこで聞いた話も合わせて、講演会の様子をお伝えしようと思います。

§ 炭坑のカナリア

今回の講演会のタイトルは「炭坑のカナリアとしての読書」で、講演後に伺った話では豊崎さんの方からこのタイトルを提示したそうです。炭坑のカナリアというのは、ご存知の通り、有毒ガスの存在を察知するために炭坑に入る際にカナリアを連れて行って、カナリアが鳴かなくなったらガスがあると判断して逃げるためのもの。講演会の後の話で本郷図書館の館長さんがおっしゃっていて思い出しましたが、山梨県上九一色村のオウム真理教の“サティアン”を警察が一斉捜索した際に、カナリアを連れていた映像がテレビに流れましたが、あれがまさにこれです。

「炭坑のカナリアとしての読書」とは何かというと、社会の危険を察知するための読書とでも言えばいいでしょうか。衆議院での与党議席の圧倒的多数を背景に、危険をはらんでいる法案が通っていく。いや、そうした政治の世界だけでなく、ネットなどを通じて安易に誰かがつるし上げられる社会などは、誰という犯人がいるわけではなく、一般の人が加担しているだけに余計恐ろしい。一体これからの社会はどうなってしまうのか、そうした想像力・判断力を鍛える読書…と言ってしまうと、功利的な読書みたいに聞こえてしまいますが、今読むと現在の社会状況に照らし合わせていろいろ考えさせられるブックリストを紹介していただきました。

講演会では、炭坑のカナリア的読書に関する説明もなく本の紹介に入り、本の紹介の中で炭坑のカナリア的読書などについての説明をしていただいたので、ここでもそれに倣って、まず紹介本のリストを先に挙げてしまいます。

タイトル著者名出版社
服従ミシェル・ウェルベック河出書房新社
素粒子ミシェル・ウェルベック筑摩書房
地図と領土ミシェル・ウェルベック筑摩書房
呪文星野智幸河出書房新社
俺俺星野智幸新潮社
ボラード病吉村萬壱文藝春秋
オールド・テロリスト村上龍文藝春秋
民のいない神ハリ・クンズル白水社
忘れられた巨人カズオ・イシグロ早川書房
元気で大きいアメリカの赤ちゃんジュディ・バドニッツ文藝春秋
九月、東京の路上で加藤直樹ころから

以上は、図書館が配布してくれたブックリストですが、私がメモできた限りでは、ミシェル・ウェルベックの『ある島の可能性』『ランサローテ島』や『希望の国のエクソダス』(村上龍/文藝春秋)、『サラの鍵』(タチアナ・ド・ロネ/新潮社)なども紹介していただきました。また、ほとんどは小説ですが、最後の『九月、東京の路上で』は関東大震災の後に起こったことを取材したノンフィクションです。

豊崎さんによる本の紹介を私がここで紹介しても間接的紹介になってしまうので、豊崎さんによる「炭坑のカナリアとしての読書」論を中心に講演の内容を思い返してみようと思います。例えば、ミシェル・ウェルベックは、豊崎さん曰く、この方自身が「炭坑のカナリア的作家」といってもいいような作家だそう。「2022年の仏大統領選。投票所テロや報道規制の中、極右国民戦線のマリーヌ・ルペンを破り、穏健イスラーム政権が誕生する」(河出書房新社HPによる本の紹介より)という内容の『服従』という作品の発売日に、ちょうどシャルリー・エブド・テロ事件が起こってしまったということなども、炭坑のカナリア的エピソードと言えるかもしれません。

豊崎さんからは、作品に限らず、彼の様々な発言(差別発言などいろいろ問題発言をする人だそう)が「今ここにある危機を放置してしまったらどうなるか」を表現しているそう。確かに人間って本当に危機に直面しないと、どこかで何となるだろうと思いがちで、卑近な例で言うと、大災害の報道を見てもご自身の家の防災対策はつい疎かにしたり、ひどい事件を見ても自分には関係ないことと思ったりしがち。ましてや社会の危機なんて自分のこと・現実的なこととはなかなか思えないところを、小説を読むことで危機をバーチャル体験するというのは、不安な時代こそ大切なことと言えそうです。

また、別の本を紹介している部分で、見たくないものを見る、聞きたくないものを聞く、信じたくないものを考慮に入れることの重要性についても触れていました。これもつい避けたくなることですが、小説を読むというかたちをとることで、その重要性がわかる面がある。小説っていろんな登場人物を俯瞰で見ることができるから、自分のことを客観的に考える視点が養えるように思います。

また、これは講演後の質疑応答の中でおっしゃっていたことですが、こういう時代だからこそフィクションを読んで、違う立場の人を思う想像力を養うことが大切なのではと。小説というかたちは、登場人物たちに自己投影して読むことができる表現方法ですし、かつ、複数の登場人物を俯瞰して眺めることもできる表現方法。それこそ目の前に危機があると、自分の立場からその危機をどうするかということにばかり考えてしまいがちですが、そんなときこそ他人の立場で見る視点、全体を見る視点が必要ですね。

§ 今読みたいブックリスト

私、この文章を講演会の1週間後に書いていまして、その間に『俺俺』と『サラの鍵』を読んだのですが、『俺俺』はやたらと繋がりたがる、でも交換可能な匿名の一人に過ぎないようでもある現代人の姿を見せられたような、ぞわっとする小説、また、『サラの鍵』はフランス警察がナチスに協力してユダヤ人を強制連行したヴェロドローム・ディヴェール事件を主題にした作品なのですが、戦後生まれのアメリカ人を主人公にするという凝った構造の小説であることも手伝って、私がもしこの人だったら、もしあの人だったらと、いろんな視点から考えさせられました。

例えば、強制連行というと現代には起こらない過去の悲劇と思うかもしれないけど、議席の圧倒的多数を背景にした強行採決などを考えると政府が強引に何かをしないとは言い切れない。そして、私はこちらの方が怖いと思うのですが、ネット上のあちこちにヘイトスピーチがあり、不確実な噂などで簡単に人を糾弾するような空気も存在する。つまり、もし政府が強制連行のようなことをしたら、それに加担してしまう人たちがいるだろうと容易に想像できてしまう。これに限らず戦時中の悲劇はどれも決して過去の悲劇ではなく、現在または将来に繋がる問題だと思います。元々、この小説は現代に繋がる話として書かれているのですが、「炭坑のカナリア」を意識して読むとますますその点を考えさせられます。

2冊読んでみて思うのは、今「炭坑のカナリア」として読む本にふさわしい本を紹介していただいたなと。2冊とも今でないときに普通に読んでも考えさせられる本だと思いますが、今のこんな時代に「炭坑のカナリア」を意識して読むと、想像の世界ではなく現実とリンクして感受してしまい、恐ろしさも大きく感じてしまうけど、今こそ深く考えて行動しないといけないという思いになります。

実は、講演後に豊崎さんとお話したときに「本当はもっとふざけたテーマで講演したい」とおっしゃっていて、私も「ぜひ次回はふざけたテーマでお話してください」と返したのですが、そのためにもふざけたテーマで講演できる社会であってほしい。そのためにも今回いただいたブックリストを読破して、広い視野や想像力を養っていきたいと思います。