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「中野の子どもたち ~時代を育む学舎~ Part2」

―2009年2月28日から9月24日までの展示
visit:2009/07/11

中野区立中央図書館では、地域資料を掘り起こす面白い展示を半年ごとに入れ替えています。2009年2月28日から9月24日までの展示は、「中野の子どもたち ~時代を育む学舎~ Part2。Par1が明治期から戦時下までの学校の様子と、中野区南部の小学校の変遷だったので、今回は戦後の学校の様子と中野区北部の小学校の変遷です。

§ 戦後の小学校

戦後間もない頃の学校といえば、私の知識では、校舎がないための青空学級や墨で塗りつぶされた教科書などが思い浮かぶのですが、展示によると、よかれと思って始まった給食制度が、給食費を払えない家庭を苦しめたという面もあったんですね。給食制度も、子どもの発育のためという理由だけでなく、相次ぐお弁当の盗難問題を解決する目的もあったとか。天災による食糧不足や貧困なら仕方がないかもしれないけど、戦争という愚かな行為のためにこんな風に学校が荒れるような状態は、二度と繰り返さないようにしないといけませんね。

そんな経緯で給食制度が始まっても、設備がすぐに整うわけがありません。例えば、桃園小学校では、プールの洗眼所を調理場にして、更衣室あたりにかまどを作って、煮炊きしていたのだそうです。メモを取ってくるの忘れてしまったのですが、展示の中に、小学校のプールができ始めたのが昭和10年代とかって記述があった気が。戦争による物資欠乏の前にプールが設置され、それを臨時の調理場に使えたというのは、不幸中の幸いだったのかもしれませんね。

§ 新制中学校

戦後の学校関連での一番の出来事といえば、学校教育法によって昭和22年4月から新制中学校ができて、小中の9年間が義務教育になったことでしょう。ただ小学校でさえ上に書いたような状態ですから、新制中学校ができたといっても校舎がすぐ用意できるわけもなく、最初は小学校の校庭を間借りしたりして授業を行っていたそうです。中野区立第十中学校は、堀越学園を間借りしての開校だったそうですよ。今の堀越高校だったら、芸能人に会えるかもと思ってしまいそうですが、この頃はそれどころではなかったでしょうね。

それから校舎や校庭が徐々に整い始め、中学校の生徒達は間借りして場所から引っ越すことになりました。展示には、中野区立第四中学校に赴任した先生が、校庭の中を妙正寺川を流れていてびっくりした話が紹介されていましたが、今も昔と同様、敷地内を妙正寺川が通っている状態なんですね。体育の授業のたびに橋を渡って校庭にいくなんて、面白~い!

学校が作られると、校舎や校庭といった設備だけでなく、校章や制服なども新しく作ることになりますね。展示には各中学校の校章が紹介されていたのですが、中でも中野区立第五中学校の校章があまり校章っぽくない面白いデザインで目立っていました。当時の教員が東京高等工芸の校章を元にデザインしたものだそうです。

それで思い出したけど、私は小学四年生のときに新興住宅地に引っ越したので、その際に転入した学校が、その前年にできたばかりの小学校だったんです。校歌は確か当時の音楽の先生が作曲したものだったのですが、終わりの部分がすごく変なメロディなんですよね(笑)。でも、そのおかげか、自分の通った中学校と高校の校歌はすっかり忘れていますが、小学校の校歌は今でもちゃんと歌えます。校章も校歌も、それっぽくない方が長期的記憶に残るのかも(笑)。

各校の校章の中には、生徒の公募を元に作られたものも多く、そうした作られ方も愛着が湧きますね。一方、生徒に意見を求めて、まとめるのに苦労してしまったのが、北中野中学校の制服のケース。男子の制服は詰襟と決まっていたのですが、女子の制服をアンケートを取って決めることにしたら、開校してから決まるまでに時間がかかってしまい、やっと決まったのが卒業式の2ヶ月前だったとか。おかげで第1回の卒業生は、制服に憧れつつも一度も着ることができずに卒業することになってしまったそうです。

§ 中野区北部の小学校の発展の様子

展示コーナーのもう半分は、中野区北部の小学校の開校当時のエピソードや、分離・合併の流れなど。Part1の中野区南部より、最近や将来の合併が少ないような気がするのですが、北部の方は南部より児童数の減少が激しくない傾向があるのかな。

面白いと思ったのが、野方小学校の開校当時の名前。「沼畊(しょうこう)小学校」という校名なのですが、学区である沼袋の「沼」、新井の「井」、上高田の「田」を合わせたのだそうです。一文字ずつ取るだけならよくある名付け方法ですが、更に二文字を合わせて一文字にしてしまうというのは、漢字文化ならではですね。

また、エピソードとしては、江原小学校の茶話会の話が印象に残りました。江原小学校では、初代の校長が校庭にお茶の木を植え、毎年5月になると茶摘みをして茶話会を催していたのだとか。お茶って、茶摘みしてから蒸したり炒ったりしないといけないし、ちゃんとわかっている人がいないとそう簡単に自家製のものなんて作れないですよね。小学校自家製のお茶なんていいなあ。当時の江原小学校の生徒さんが羨ましい!

中野区北部の小学校それぞれの校章とその由来も展示されていたのですが、中野区が桃や大根が多く植わっていた場所だったことがよくわかります。ありきたりな桜とかではなく、こうした土地由来のものが校章に織り込まれているというのはいいですね。

小学生や中学生の頃なんて、学校の由来なんかにあまり興味を持たないことの方が多いだろうから、ご出身の方でも知らないエピソードも多いのではないでしょうか。中野区の学校に通ったこともない私が見ても面白い展示ですから、ご出身者ならもっと面白いはず。中野区民はもちろん、元中野区民の方も、ぜひご覧になってくださいね。