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「中野の神社をたずねて 南部編」

―2009年9月26日から2010年2月25日までの展示
visit:2010/02/25

商店街、公共交通、学校など、生活に密着したものを通じて、中野区の歴史を紹介してくれる、中野区立中央図書館の地域資料展示コーナー。学校の次のテーマに選ばれたのは神社で、2009年9月26日から2010年2月25日まで南部編の展示です。

§ 平安時代を起こりとする神社

中野区南部の神社で一番大きいのは東中野にある中野氷川神社でしょうか。展示コーナーでも、右側の棚の大部分が、中野氷川神社に割かれています。1030年に源頼信が平忠常の乱を平定したときに、武蔵国一宮氷川神社の神霊を勧請し、小祠を建立したのが起源の神社だそうで、勝海舟の額や、山岡鉄舟の掛け軸、また普段は本殿内で安置されている狛犬などの写真がずらり。これらの写真は、今回の展示のために、職員さんが撮ってきたようですね。安置されている方の狛犬は、現在の本殿前の狛犬と比べて、確かに風雪を乗り越えてきた雰囲気。

また、中野氷川神社の明神鳥居は、鍋屋横丁の名前の由来となった「鍋屋」の主人、鍋屋勘右衛門が文久2年(1862年)に寄進した鳥居だそうです。鍋屋横丁から中野氷川神社まではちょっと距離があるのですが、中野氷川神社がそれだけ栄えていた神社だということなのでしょうか。

1092年に源義家が多田満仲公の祠を建てたことに始まる多田神社は、絵馬に目が惹かれてしまいます。「多田満仲公住吉明神のお告げに因りて大蛇を射止し所の図」なんて、まさに平安時代の武将のイメージそのもの。この絵馬は1976年に描かれたものですし、現代人の頭の中の平安武将ってやっぱりこんな感じ?展示には、1879年に描かれた「頼朝が富士裾野に於いて猪を狩る図」や、1816年に描かれた「源平古戦場」と、広い景色を俯瞰した絵馬もありました。見比べると、画風だけじゃなく構図も、時代によって違うものですね。

§ 太田道灌が造営した氷川神社

中野区南部の氷川神社は、東中野以外にも本郷氷川神社と神明氷川神社があるのですが、どちらも太田道灌が江戸城の守り神として、武蔵国一宮氷川神社から勧請した神社なんですね。太田道灌の造営した神社は、山王日枝神社や築土神社など、江戸城に近い神社が有名なところでしょうが、中野区南部だけでもこんなにあるんですね。いや、東中野氷川神社も道灌が豊島一族を攻めるときに戦勝祈願し、それがかなったということで社殿を造営したのだそうです。

興味が沸いたのが、本郷氷川神社の鳥居。現在の鳥居は1998年(平成10年)に新しくしたものなのですが、残っている古い鳥居の柱に”文政五年次郎吉”の銘があり、江戸時代の鼠小僧次郎吉によるものではないかと言われているのだそうです。本当にそうだったら、一回目に捕まる以前、いや盗人稼業を始める前のものになるのかな。本人のものかどうなのか、真実は神のみぞ知る…ですね。

§ 数々の稲荷神社

展示コーナーの左側の棚は、稲荷神社を中心に小さな神社が紹介されています。五柱五成(ごしゃいなり)神社、明徳稲荷神社など、元々屋敷稲荷だったものが、参拝者が多いので地域に開放された、という神社がいくつかあるんですね。こうした屋敷神として祀られていた稲荷は鍋屋横丁近辺に多いそうで、商売繁盛を願って祀られたのでしょう。

私にとって面白かったのが、一本檜稲荷にまつわる話。

この一帯の丘陵地は徳川綱吉の作った犬屋敷の一部で「五の御囲」と呼ばれていた。その跡地に徳川吉宗の命により桃の木が植えられ、桃園という花見の名所となった。その徳川吉宗が賞賛したという檜があったということが社名の由来である。

昔地名として使われていた「桃園」が、吉宗が作った桃園にあるというのは、これまでの中野区立中央図書館地域資料コーナーの展示で知っていたのですが、そこが以前犬屋敷があった場所とは、この展示で初めて知りました。

それにしても「桃園」っていい名前ですよね~。サイトやブログで何度か書いた気がしますが、響きもいいし、史実に基づいている。地名からはなくなってしまいましたが、公共施設などの名前で残っているこの名前、ぜひ使い続けて欲しいと思います。

全体的に、雨乞いを行事として行っている神社も多く、この辺りが農村地帯だったことが窺えます。それぞれの神社の行事や由緒を見ていると、生活のことから戦のことまで祈願して、その後ちゃんと感謝を返して、というサイクルで、神社が成り立っているということを感じます。私は祈願する一方で、あまりお礼をしていないので、反省しました(苦笑)。これからは、ちゃんとお礼をしたいと思います。