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「中野交通ノスタルジィ Part2 ~昭和・平成編~」

―2008年3月1日から9月25日までの展示
visit:2008/09/05

中野区立中央図書館では、地域資料コーナーの一画で半年ごとに地域に関する特集展示をしています。2008年3月1日から9月25日までの展示テーマは「中野交通ノスタルジィ ~昭和・平成編~」。前回のPart1に続いての区内の交通の歴史です。

中野区を走る電車で、地下鉄でない電車は、中央総武)線と西武新宿線ですね。戦後の中央線の話なんて、もう壮絶。展示されていた文章を引用すると、

昭和21年1月の朝日新聞のコラムによれば、あまりの盛況振りに1日に50枚の窓ガラスが割れ、応急処置としてベニヤ板を張っていたという。

って、窓ガラスが割れるほどの混み具合に"盛況"なんていう好意的な言葉を使っていいの?と思うくらい。真ん中に乗っている人は、ちゃんと息ができたのでしょうか??

それに比べると、西武新宿線は、もともと住民が中央線沿線ほど多くはなかった上に、戦時中に黄金電車(都心で出た屎尿を地方で肥料として使うために運ぶ電車)を走らせていたイメージのせいもあって、住民の増え方もそれほどでなく、中央線のような満員電車地獄はなかったようです。展示で紹介されているエピソードも

戦後の混乱が収まり沿線に住宅が増えても、インフラの整備はなかなか進まなかった。都立家政駅前の踏切では無人の上、遮断機もなかったため、近隣にあった愛児の家という孤児院の子どもたちが手旗を持ち、交通整理をおこなっていた。おかげで昭和25年より5年以上も無事故であったという。
という、ほのぼのとしたもの。

その西武新宿線には現在開かずの踏切も多いので、上石神井辺りから新宿にかけて急行用の線路を地下に敷くという計画が持ち上がったのですが、資金難で1995年1月に西武鉄道が計画の延期を発表。中野区では1996年2月に区議会本会議で全会一致で西武鉄道への意見書を可決したけど、今でも計画再開の予定はないそうです。確かにお金もかかるだろうから、やりたくてもそうすぐにはできないのかもしれませんね。

地下鉄で中野区内を走っているのは、東京メトロ丸ノ内線東西線に、都営大江戸線。私、この展示見るまで、都営大江戸線がリニアモーター駆動だと知りませんでした。リニアモーター駆動の電車は、東日本では初、全国では2番目とのこと(全国初は大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線)。

丸ノ内線については、駅名に関する話が面白かったですね。中野坂上駅と中野新橋駅は、当初新しい町名に合わせた「本町通二丁目駅」「本郷通り二丁目駅」という駅名を予定していたのが、住民からの要望で昔から馴染みのある今の名前になったとこと。また、新中野駅については、当初「南中野駅」という駅名がつけられていて、これも住民から違う名前にする要望が出たのですが、代わりにつけたい駅名の意見が割れたのだそうです。中野区議会に出された請願が、「鍋屋横丁駅」に15589人の請願人、「地下鉄中野」に9837人の請願人。区議会では「鍋屋横丁駅」を採択したのですが、最終的にはどちらでもない今の駅名「新中野」に落ち着いた次第。

丸ノ内線は都電杉並線と近いルートを通り、結局都電杉並線を廃止させるに至った線と言ってもいいと思うのですが、その都電杉並線の話もPart1の展示にあったことを思い出すとさらに面白いです。中央線が最初青梅街道沿いに敷かれると計画された際に、地元住民が汽車の煙害などを嫌って反対、結果交通の便が悪くなって商店街がすたれてしまったんですね。そんな背景を踏まえると、西武軌道株式会社が大正10年に淀橋~荻窪間に路面電車を開業した(これが後の都電杉並線)ときに、地元住民にとって念願の開業だったというのを読んでも、単なる公共交通過疎地に電車が通ったのではなく、住民達の街の将来像の見誤りがやっと修正できるときがきたという感じで。

でもね、この念願の路面電車、他の路線と線路幅が違っていたために他線との乗り入れができず、ちょっと不便だったんですって。他線と同じ幅の線路を敷き直して欲しいという要望も出たけど、結局それは実現されず。しかも、都電杉並線と入れ替わるように開通した丸ノ内線も、線路幅や集電方式の問題で他線との乗り入れができないですよね。何だか因縁めいたものを感じてしまうのは、私だけでしょうか。

その他、日本初の女性バス運転手は国際バスの運転手さんだった話など、中野区の公共交通機関の話がいろいろ紹介されています。普段これらの交通を使っていない江東区民の私でも面白い展示だったので、通勤通学で利用している方ならもっと面白いと思いますよ。ぜひ中野区立中央図書館に寄り道して、展示を見てみてくださいね。